北九州市の北橋健治市長は28日、市議会へ送付した2007年度予算案において、ひびきコンテナターミナル公共化事業を打ち出した。運営会社の資産は北九州市が45億1000万円の公金を投じて買い取る。ひびきは港湾運営を民間資本に委ねるわが国初の事例として注目を浴びたが、開港からわずか2年で完全に破たんした。
ひびきコンテナターミナルは初年度7万TEU、次年度14万TEUを取り扱う見込みだった。実際は初年度が5823TEU、次年度2万9358TEUで、損益分岐点の年間20万TEUからはほど遠い。2006年度の累積損失は17億8500万円で、資本金と株主融資金の合計24億円には届かないが、2007年度で債務超過に陥ることが確実とみられる。
北九州市と運営会社が交わした事業実施協定には「累積損失が資本金相当額の80%を超えた時点で経営改善策について協議する」とあり、その結論が公金投入による民営港湾の公共化だった。今後ひびきコンテナターミナルは北九州市港湾空港局が運営する北九州港の一部に組み込まれ、太刀浦コンテナターミナルと同格に扱われる。
運営会社はすでに営業活動などは行っておらず、4月以降は業務を施設の保有・管理に縮小している。今後の方針は2007年6月下旬の株主総会で決める。
北九州港は神戸以西で最初にコンテナの取り扱いを始めた。太刀浦地区にコンテナターミナルが開設されたのは1971年。当時、東アジアのコンテナ航路は太平洋ルートが主流で、太刀浦は太平洋ルートのハブ、神戸港の衛星港(フィーダー港)として発達した。
しかし東アジアの経済発展に伴いコンテナ航路は日本海ルートが主力となり、これに対応すべく計画したのがひびきコンテナターミナルだった。太刀浦で太平洋ルート、ひびきで日本海ルートに対応すれば、北九州港が東アジアの結節点として国際中核港湾になれる。後の釜山港の爆発的な発達や、国内港湾の著しい地位低下はまだ予見できなかった。
ひびきコンテナターミナルは下物と上物を分離して整備したのが特徴だ。下物は国と北九州市が約1000億円を投じて整備した。上物はPSA(本社、シンガポール)と上組(本社、神戸市)を中心とした国内外15社と北九州市が設立した運営会社が建設した。事業実施協定は開港から25年間有効。
北九州市が運営会社選定の優先交渉先としたPSAは業績不振や内部抗争により、早い段階から変調の兆しがあった。2002年には一方的に出資比率を60%から34%に引き下げる通達を寄越すなど、選定時の提案が実施できないことが確定的な状態だった。PSAを見限って優先交渉先を変更しなかった北九州市当局の責任は重い。ひびきはこの時点で将来の破たんが約束されていた。
穴埋めの追加出資をめぐっては国内企業の調整が難航した。事業意欲の減退は目を覆うほどひどく、最終的には穴埋めするのではなく、資本金自体を予定の39億円から10億円へ減額した。資本力を買われて優先交渉先に選ばれたにもかかわらずだ。この時点で運営会社の速やかな破たんも懸念された。
事業を主導すべきPSAは「ノウハウは提供するが、コンテナ貨物の集荷は北九州市が主体的に進めるべきだ」と当初の提案どころか自助努力すら放棄した。残る国内各社はPSA主導に対するわだかまりから、遠巻きにして見学者を決め込むばかりだった。
運営会社の設立が大幅に遅れた上にこの体たらくだから、スーパー中枢港湾の本命とされながら2004年の指定を逃した。指定をめぐって関西を筆頭に政財界の陳情が加熱する中で、コストやサービス以前に事業意欲があるのかどうかさえ疑わしいひびきを推すのは、客観的にいって不可能だった。
ひびきコンテナターミナルは民間活力を導入したにもかかわらず「走り出したら止まらない」公共事業の典型だった。民間の経営者であればどんなに鈍感でも2002年までにはビジネスモデルの破たんに気づいたはずなのに、だれ一人リセットボタンを押さなかった。開港は2005年4月1日。上物を最低限そろえただけで、まともな営業攻勢もかけず、入港する船舶がない状態での開港だった。